空飛ぶバディネリ 2008年05月
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空飛ぶバディネリ

♭ いろいろな読み物などを掲載します。リンクはご自由にどうぞ。

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『青い巣』(第14回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第14回/全16回) by AntennaMan

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 それから一日もおかず、サアは著しい衰弱をみせはじめた。看病しようにも横たわらせるべッドはなく、水まくらをしてみたくてもあたりはみんな水だった。
 彼女のからだの色つやはおとろえ、鱗も剥がれやすくなって見た目にも痛々しかった。
 そのころから斎藤はほとんど寄りつかなくなったが、古沢は前よりも頻繁にやってきて栄養のつきそうな食べ物を差し入れてくれた。人が来ると物陰に隠れる子供たちを斎藤が見ることはなかったが、古沢はそれに気がついても、へえ、といっただけだった。
 今までほどうまくいかなかったが、僕は肺の空気を水に入れ換えて力なく漂うサアに寄り添った。死期を悟った者への献身的な介護は介護するほうの満足感しか残さないものだともいわれそうだが、どう思われようと、僕はサアに何かしたかった。せめて、水を飲ませてやったり、氷水の入った洗面器で絞ったタオルを額にのせてあげたかった。かけた布団の上からぽんぽんと叩いて隙間をなくしてやりたかった。
 しかしそれができなかった。献身的な心配はできても、それは彼女の負担を大きくするだけだった。
「ね、もういいのよ。どうせ死ぬんだから。それにこんな弱った体、見せたくないもの」
 『弱った体』と『人に見せたくない』を結びつけて彼女に教えたのは斎藤だった。彼はいったのだ。辛くて見てらんねえよ、と。
 しかし、鈍い僕が、それまでの彼女はいっさいそういった考え方を持ち合わせていなかったらしいということに気づくのには時間がかかり、彼をぶっ飛ばしてやろうと思ったころにはすっかり顔を出さなくなっていた。
 せめて生きている間だけでも楽しくしていようと思ってみたが、僕にも体をみせたくないという思いにとりつかれてしまった彼女とそうするのは難しかった。
 力なく水面近くを漂いながらも、懸命に元気な顔を作った彼女がいう。
「ね、いいこと考えた。あたしの体売ってよ。今ならまだ少しはお金になると思うよ」
 僕は、馬鹿なこというもんじゃない、といってサアに背を向け、涙をこらえながら気がついた。ひょっとして僕は、死ぬのが悲しいことだと彼女に教え込もうとしているのじゃないのか。彼女の今の状態は、哀れな状態なんだいうこともまた‥‥‥。
「ねえ、どうして。あたしだってあなたの役に立ちたいと思う。ただ、かわいそうに思われて死ぬのなんていや」
 背中に彼女の声を浴びながら、僕は返す言葉をみつけることが出来なかった。
「ねえ、なんとかいってよ」
 いうべき言葉が見つからないままにサアの方を振り返れば、僕を見下ろす彼女の前を子供たちの群れがひとつふたつ通り過ぎて行った。
 キラリキラリと身を翻して僕とサアの間を泳ぐ子供たちは、もうその数を数えられそうな程に少なくなっており、中には個体識別できるものさえいる。死ぬことと生き延びること、日々有りふれていたそんなことが、いつのまにかひとつひとつ一大事と化し始めている彼らの存在だった。しかしサアはそんな子供たちには目もくれず、非難を露にした表情のまま僕を見据えるだけだった。

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『青い巣』(第13回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第13回/全16回) by AntennaMan

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 銀色の月が美しく輝く晩、水から顔を出して横になる僕の隣に、サアが仰向けで浮いてきた。
 子供が生まれて以来、彼女はいつも機嫌よくおしゃべりをしていたが、このところ僕との直接的な会話はほとんどなかった。悪いとは思っていたが、水中と水上では今までほどにはうまく話が出来ず、いつかはそれを責められるんじゃないかという気がしていた。それと、意味をなしているかどうかは別に、子供の世話や教育に忙しくしているサアに対して、僕が彼女に話したく思う諸々のことはどこかそりが合わなそうな気がしたのだ。
ムムこうやって空気で息をしていると部屋に水を溜め始めた頃のことを思い出すよ。そのうちサンゴでも増えたらいいと思わないか。サアに会うまでの僕はいやになるほど窮屈な恋愛観や女性観しかもっていなかった。斎藤に彼女を連れて来いよというとそんなこと出来るわけがないというのはどうしてだろう。空の底へ水の粒が沈んでいってそれが集まったのが海だって見方は詩的じゃないかい。今度みんなで海へ行こうかムム
 そんな言葉が、月を見つめる僕の頭に次々浮かんだが、どれもこれもうまく口をついて出なかった。
「ねえ」
サアが先に口を開いた。
「あたしね、もうすぐ死ぬの」
 いきなり飛び出した突飛な言葉におどろいてサアのほうに顔をむければ、暗く揺れる水面の下で、青白い光を浴びている彼女がいった。
「知ってるでしょ、そういうの。もう、赤ちゃん産んでからずいぶん経っちゃった」
 奇妙な程落ち着いたサアの口調のためか、やけに冷静に頭を巡らせた僕は、いくつかの魚の名前を思い浮かべた。一生に一度の産卵に全ての体力を使い果たして死んで行く魚の名前だった。
 しかし、それらは全部が全部必ず死ぬというわけではなかったはずだ。
「死ぬって決まっているわけじゃないだろう。そういう種類の魚がいるにしたって、サアはサアだし、こんなに元気じゃないか」
「うん、今はね。でも、わかるの。もうそろそろなんだろうなって」
「だめだよ、そんなこといったら。しっかり栄養つければきっと大丈夫さ。死ぬなんて考えちゃいけない」
 色を奪う月の光の中で、石像のように冷たく整ったサアの姿が水面下で鈍く光っていた。僕は彼女の体が沈んでいってしまうような気がして、慌てて言葉を継いだ。
「僕もまたすぐ潜れるようになるから、前みたいにいっしょに暮らそう。だから、死ぬなんていわないで」
 そういう僕の顔を優しい目でみて、サアは、しょうがないのよ、と静かにいった。
 僕はあることに思い当たり、彼女に尋ねた。
「もしかして、僕との子供を作らなければ大丈夫だったってこと」
 サアはさらに優しい目をして、卵はあたしの体が勝手に作り始めたのよ、とだけいった。彼女の体に腕をまわすことなど、とうてい出来なくなってしまう程の優しい目だった。
 頭の片隅からは、家具類が一斉に浮き出してしまってどうしようもなかった頃の記憶がザワザワ甦り来て、騒がしさに眠れない夜だった。

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『青い巣』(第12回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第12回/全16回) by AntennaMan

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 ちょっと頭を冷やす必要がありそうだ。
 部屋の中が仔魚でいっぱいなのは事実だ。それと、サアの他に子供を生むような存在はいない。ケガニがここへ来たときから抱いていた卵を放出したのだとしても、それはそれで区別がつくだろう。では、人魚の子供は卵から孵るのか。
 下半身は魚なのだからそうなのだろう。じゃあ、あの乳房はなんのためだ。この魚にしかみえない小さな子供たちが母乳を飲んで育つようには思えないが。
 いや、僕だって乳首はあるし、乳房の大きさは母乳の出とはあまり関係がないらしいからあてにはならない。ひょっとしたら、大きくなってから母乳を欲しがるのかもしれない。でも、あれが僕とサアの子供ならなんでまるきり魚なのか。
 人間だって発生の初期はほとんど魚と同じような形態だというし、だいたい、産んだサアの下半身は魚だ。しかし、その前に僕はサアを妊娠させた覚えなどまるきりないが、それはどういうことだろうか。
 彼女の下半身は魚だ。始めから卵はもっていたのだろう。成長の具合や季節変化の刺激で勝手に卵を作りだしてもなんら不思議はない。ひょっとしたら僕と生活を始めたのがそのきっかけになったかもしれない。それじゃあ、この子供たちは本当に僕の子供なのか。
 確かにあのとき、僕はサアに向かって射精した。性的な快感とは全く別物だったと思うが、放精したことにはかわりはない。水着が溶けてしまっていたことは、それを有効なものにする何らかの機構が働いたと思えばまさにそれらしい。でも本当に受精がそこで起こったのだろうか。
 単位生殖。それはありうる。たしか、ある種のフナだったかは、他の魚の精子の刺激だけで発生を開始するのだ。遺伝子の融合は全く起きない。しかし、本当に受精していたとしたら‥‥‥。
 そこまで考えた僕は、自分の考えていることが全く馬鹿げていることに気がついた。どうに生まれた子であれ、サアと僕が暮らし始めて生まれた子供であることにはかわりがない。それに、サアが無数に泳ぐ仔魚に向けるまなざしは、親の愛情以外にいったいどんなふうに見える?
 僕が、サアが水のなかでタバコを喫っているなどと馬鹿げたことを思っていたとき、彼女は身のまわりに卵を散らして酸素を送っていたのだろう。とするとケガニは僕に手をふっていたのではなく、おこぼれにあずかって食事をしていたということになる。
 僕は考えるをやめにした。
 なにもかも、全ては愛の力に違いない。

 少しくらい平気よ、というサアの口からも、実際仔魚が出たり入ったりしていたが、僕にはどうもそうする気持ちになれなかった。サアは、優しいのね、というが僕にしてみればやはり子供を食べてしまうのは抵抗があるし、肺の中で泳ぎまわられるのもぞっとする。また、ともすれば自分の精子を飲み込んでいるような気がしないでもない。子供達は、テレビでみた人間の精子とまるで同じような泳ぎ方だったのだ。
 僕は肺の水を追い出して空気で呼吸するようにし、寝るときは顔が水から出るよう天井に紐で固定した。昼間は息をとめて水の中を泳ぐようにした。
 久しぶりに斎藤が訪ねてきたが、へえ、やっと水からあがる気になったか、といっただけで子供が目に付かなかったばかりでなく水着が新しくなっていることにも気付かなかったようだった。子供が出来たと打ち明ける気にもならなかった。幸いなことに、というか、サアは子供にかかりきりになっていて、彼に挨拶もしなかった。

 日夜子供の教育に専念しているサアだったが、その口調からいってかなりに何かの影響を受けたものらしい。初めての子育てなのだろう。
「いい? あれは、テレビ。こっちが、ワカメ。その向うにあるのが扇風機よ。扇風機はまだ危ないから近寄っちゃだめね。で、ここにあるソファーは人工皮革なの。いい? ジ・ン・コ・ウ・ヒ・カ・ク‥‥‥」
 いくらか育って遊泳力のついてきた子供たちは、群れをなしてところかまわず泳ぎ回っていた。サアの言葉を理解しているとは思えない。
 数もへり、銀色に色づいてきた子供たちを食べてしまう心配はもうほとんどなかったが、僕は相変わらず空気中で呼吸をしていた。なぜか、再び肺を水でみたすのがおっくうでしかたがなかったのだ。ただ、出来る限り水に潜って暮らし、子供たちと共に遊んだ。肌をつつかせたり群れを散らしてみたりするのが本当に遊んでやっていることになるのかどうかはともかく、それなりに楽しかった。
 全く初めての経験だったが、自分もまた、彼、もしくは彼女らをかわいいと思っているのだという気がする。

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『青い巣』(第11回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第11回/全16回) by AntennaMan

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 どこでそんな泳ぎ方を覚えたかわからない。ふと気がつけば、僕はサアの体にしがみつき、彼女を水底に押しつけていた。海藻の森を透かして揺れる僅かな光のなかで、乱れた髪が妖しく漂い、聞こえるのは水の音などではなく、円く開いた彼女の口からもれるうめき声だけだった。
 が、その理性的な認識は腕の中の体が突然くにゃりと変化したとたんに跡形もなく吹き飛び、頭の中に水がどっと流れ込んだ。そして、飛び交っていた記憶の断片が無数の鱗に埋め尽くされ、僕はふいに、自分の性器が数百本もあるような錯覚に陥った。
 思いがけないことだった。唐突にやってきた射精の感覚に僕は混乱し、舞い散る鱗が輝くなか、体の中に甦るせせらぎの音に乗り、意識は闇に向かって泳ぎだした。

 うちのもんじゃ焼きはソースが違うんだよ。
 だめじゃない、ちゃんとたべなきゃ。
 いいの。ネコが来るんだ。もうすぐ。ネコがアジもってさ。
 暗いのはいや。だって、ウドもコゴミも。雪が溶けるとぐちゃぐちゃするでしょ。
 だめよ。あたしだって見せたんだから。
 へえ。

 飛び交う鱗。鱗。鱗。

 随分と長いこと眠り続けているらしい。
 ときおり意識が戻って目を開けると、昼のこともあれば夜のこともあり、二度繰り返して朝を迎えたりした。
 全てがぼうっとかすんでいるようで、自分が今どこにいるのかのまったく実感がもてなかった。もう死んでしまったのかもしれないと思い、そんなわけはないぞとも思い、どっちもあまりかわらないなと思った。
 続けざまに二度夕方をむかえた直後だった。
 僕は死体のような格好をして水面ちかくに浮かんでいるようで、遥か深いところにいるケガニと目を会わせていた。いつもほとんど姿をみせない彼が、堂々とテレビの前に出てきて僕に手を振っていた。
 まるでスター気取りだ。
 僕も手を振り返してやろうとしたが、どうにも手に力が入らない。
 サアは、と目を動かせば、ダイニングのテーブルに腰掛けてタバコを喫っていた。
 もうもうとした煙に包まれ、幸せそうな笑みを浮かべている。もしかしたらタバコではなく、マリファナか何かなのかもしれない。あれをやると笑ったような顔になると聞いたことがある。そうなら後でわけてもらおう。
 煙の粒子が静かに彼女の周りを漂っている。気持ちよさそうだ。
 そういや、しばらくタバコなんて喫っていない。たしか、アウトドアグッズの店で買った防水マッチがまだ押入れにあったような‥‥‥。
 だめだ。眠くてしょうがない。もう一眠りしたら‥‥‥。

 薄く開いた目の隙間から妙にちらちらとした光が忍び込んでくる。
 聞き覚えのある声が遠くから近づいてきた。
「ねえ、生きてる? 生きてる?」
 サアの声だ。
「生きてる? 生きてたら返事して」
 重たいまぶたをこじ開ければ、目の前にサアの顔があった。
「‥‥‥あ、ああ、ごめん。なんだかすごいよく寝ちゃって‥‥‥」
ニコニコ顔をしているサアがいった。
「よかった生きてて。ね、みて。赤ちゃんが生まれたの」
「えっ、赤ちゃん」
 慌てて体を立ててからサアをみたが、彼女は大きく手を横に開いているだけだったので、なんのことをいってるのかわからなかった。
 が、もしやと思い、さっきから目の前でしきりにきらきらと光るものに目を凝らしてみれば、それはほんの数ミリしかない、孵化したばかりと思える魚の子供だった。透き通った体はまるでテグスの切れ端のようで、黒い大きな目でかろうじてそれとわかる。
「あ、赤ちゃんって‥‥‥」
 目の焦点をずらしてゆけば、それこそ数千数万という夥しい数の仔魚が、あたり一面ひょろひょろ泳ぎ回っているのが見えた。
 とびきりの笑顔をみせるサアがいった。
「あたし、でかした?」
でかしたっていっても‥‥‥。
「これ、僕達の赤ちゃん?」
「うん」
元気よくサアはいった。
「みんな?」
「うん」
さらに元気よくいった。
「あなたも跡継ぎが出来たのよ。よかったね」
 僕はなんといっていいか、うまい言葉を見つけられなかった。
「昨日孵ったのよ。みんなしてピンピンピンッて出てきたの」
「ピンピンッて‥‥‥」
「そ。きっと卵の中、すっごく窮屈だったのよ」
 今まで見たことのないほどの優しい目で周囲をぐるりと見まわしたサアは、僕の顔に視線をもどしてからいった。
「でもね、どれが長男だかわかんなくなっちゃったの。注意してたんだけど。ごめんね」
 ジョークだかなんだかわからない彼女の話に僕はますます言葉を失い、そして、大きく息をついてしまった直後だった。吸い込んだ水の中にいくつものキラキラがあったことに気づいたのだ。
「たいへんだ。子供が口に入ったらしい」
 あわてて水から顔をあげてそういったが、その拍子に水と空気をへんなふうに吸い込んでゴホゴホとむせてしまった。体は再び水の中に沈み、おぼれそうになった僕は必死で天井の切れ目につかまり体を支えた。
 どうにか落ち着いたあと、息を止めて水に潜れば、不思議そうな顔で首を傾げたサアがいった。
「しょうがないよ少しくらい。まだいっぱいいるから大丈夫」
そして、優しい笑みに表情をもどし、あんたたちももうちょっと大きくなれば平気だもんね、と、あたり一面に満ちた仔魚に話しかけた。
 よくよく見渡してみれば、子供達の数は数千数万ではとうていきかないように思えた。そしてそのとき、僕は自分のモスグリーンの水着が、なにか薬品におかされでもしたようにぼろぼろになり、ほとんど役目を果たさなくなっていることに気がついた。

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『青い巣』(第10回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第10回/全16回) by AntennaMan

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 その日の夜、肌寒さに目が覚めた僕は、自分がうつ伏せの妙な姿勢で漂っていることに気がついた。
 月明かりの射す水底を見回せば、暗く広がる海藻の森がいつもと違った様子で波打ち、どこか尋常でない気配を漂わせていた。視界が奇妙にぶれるのでじっと目を凝らしてみれば、表面の水が陽炎のように揺らめきながら静かに底へと沈み込んでいるのだった。
 僕は暫くその様子に見とれていた。微かな屈折率の変化は時間の隙間を縫う模様のようで、なんの音も立てない秘密めいた囁きだった。そして水の動きを逆にたどって月の光の当たる水面へと視線を移して行けば、表面あたりに細かな泡や浮遊物等、無数の粒子が一定の速度で移動している層があるのが見てとれる。
 そう、気温の低下で表面から急に冷やされたことによるのだろう。成層していた部屋の水が、上下ぐるりと入れ替わろうとしているのだ。
 サアは、とあたりを見回せば、その姿がみあたらなかった。いつも、だいたい僕と同じ高さに浮いていたはずなのに、水の動きに乗ってどこかへ流されてしまったのだろうか。
 と、僕は、いつも僕を包んでいた彼女の匂いがワカメやアオサの匂いと置き変わっていることに気がついた。水の流れのせいだと想像して納得したものの、急に不安でどうしようもなくなる。
「サア、サア」
僕は名前をよびながら、暗い部屋の中、彼女の姿を探しまわった。
 海藻の森をざっと見渡し、ダイニングのテーブルの下から冷蔵庫、戻って来て扇風機の影やソファーの裏から、いつもケガニの隠れるテレビの脇へともう一度目を走らせれば、ホンダワラの深い茂みの中にふたつの黒い瞳が光っていた。
「サア」
 大急ぎで水をかいて近寄っていくと、ふいに彼女の匂いが僕を取り巻いた。懐かしさと対峙する材料を何も用意できなかった僕の頭はカラカラと空回りを始める。
「サア、サア」
 焦燥感に似た感覚にかられてサアのいるしげみに泳いで行き、じっとこちらを見据える彼女の体に手を触れようとすれば、さらに強い匂いが僕を直撃した。
 どうしようもなくはらはらした思いがこみ上げ、僕はサアに向かって手を伸ばす。そして彼女の肩に触れたとたん、空回りしていた頭の中に何かがふいに流れ込んだ。どこからか水の流れのような音が聞こえ始め、意味のわからない記憶の断片が鈍い光を放って宙に舞う。
 味わったことのない種類の不安感にかられて彼女の体に両腕を回すものの、つるりとした肌やざらついた鱗の感触は僕を満足させず、身体中に力を込めてサアを抱き締める。きつく抱き締め、心から欲しているサアのシンを探す。骨でも心でもなんでもいい。今こそ、思い切りきつく抱き締めればそこに触れることが出来るかもしれない。
 不安を消そうと、そして、真に求めているものを手に入れようと僕は必死でサアの体にしがみついた。しかし、僕の腕の中には水の温度と同じサアの体があるだけで、視覚も触覚も、アクのように浮かび来る記憶の滓でさえも絶え間なく続く水の音にくるみ込まれて実感を失ってしまいそうだった。
「サア、サア」
 自分の声さえ、水の音に紛れて何処かへと流れさってしまう。

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『青い巣』(第9回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第9回/全16回) by AntennaMan

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 月明りがオーロラのごとく揺れる水の中、僕はサアの腰にしがみつき、鱗の始まる部分に口づけをする。そして滑らかな下半身を下から撫であげれば鱗が一枚ほろりと剥がれ、僕はそれを食べてしまう。
 安堵を求めてサアに近づけば近づくほど、込み上げるはらはら感は強くなり、不安になってきつくしがみつけば、さらに強い匂いが鼻孔に流れ込む。僕はサアから離れられない。
 そんな僕の、静かに揺れているはずの髪をなでながらサアがいった。
「あなた、最近いい匂いがするよ」

 頭の中がやかましい。
「ほら、早くちゃんとボタンはめて。ヒロちゃん待たせたらわるいでしょ」
「へえ。ピーマンもニンジンも食べるのに、魚はだめか。ウドもコゴミも好きなのにか。へんな子だなあ。よし、おいさんが今度、釣りたてのアジもってくらあ。いや、それとも一緒にいくか」
「そうか。そりゃあよかったな」
「わかった。わかったから、もうそのことはいうな」
「いいでしょ、これ。ほら、ここんとこピカピカしてて」

 匂いを発しているのはいったいだれだ? 僕は、何の記憶を呼び戻そうとしている?

「だめだよおめえは。才能ねえよ」
「ごめん。好きな人が出来たの」
「まあな、そういうこともあるさ。来週あたり飲み行かねえか。いい店見つけたんだよ。お通しがいつもすっげえうまくて全国各地の日本酒がずらりとそろってる」
「あらあ」
「いいじゃんこれ。どしちゃったの、なんか憑いたか」
「もう、やだ。こんなの」

 甦らせたたくさんの記憶が僕の感情をかき混ぜ、抱き締めるサアの下半身は行きがすべすべして帰りはざらざらする。
 もう十年も前に死んだ飼い犬のマリがワンと吠え、神社の石段の隙間にはアリがぞろぞろ入り込んでゆく。床屋の前をとおると歯医者の匂いが漂い、桜井商店のばあさんは入れ歯をはめて、うちのもんじゃ焼きはソースが違うと自慢した。やけくそで飛ばすバイクのエンジン音と、この上なく感傷的な『ロンドンデリーの歌』をバックに買い手を待つ、みたらしだんごやタコ焼、かんぼこ。つぶれたアメリカシロヒトリの幼虫からは緑色と無色透明な中身がはみ出し、足の指の間から泥をひねりだして歩けばフナやドジョウがぶつかってゆく。雪解けにぬかるんだ道をつま先だちであるき、性器の見せっこをした電気屋の娘は髪を茶色く染めて赤ん坊を産んだ。夕立の始まりにはほこり臭い空気が立ち上り、眩しく光る雨上がりの道を横切って行くのはちょびヒゲの子猫で、満開の花を誇っていたお寺の桜は僕が小学校に上がった年の夏に雷でまっぷたつにさけた‥‥‥。

 渦巻く記憶の中には探し求めるものはなく、どんなにきつくサアを抱き締めても、本当の抱き締めたいところには行き着かない。
 はらはら感を吹き飛ばして手にしたいのは、サアの中にあるに違いないシンのようなもの。そこにたどり着ければきっと僕はこの上ないやすらぎに身を任せられるだろう。それは彼女の骨かもしれないし、心なのかもしれない。どちらにしても、からだの肉が邪魔をしてたどりつけない。
 全てを貫き通して、本当の抱き締めたいものと触れ合いたい。どれだけ力をいれればそこに行き着くのだろう。サアの匂いは僕をいらいらさせる。目一杯抱き締めて絞り出せば、もう出て来なくなるかもしれない。
 サアとからみあう僕の視界を蛍光灯の紐や冷蔵庫や海藻の森がよぎってゆく。アマモの優しい揺れがおとなしやかなミラーボールの代わりをして、青い世界に斑な光を投げかける。

 そんなある日、目が覚めてみると重苦しかった扇風機のモーター音がどことなく軽やかに聞こえ、いつもより天井が近くにあった。
 屋根のないところに泳いで行って空を見上げれば、水面を通して白いイワシ雲が揺れて見える。くっと息をとめて顔を出すと濡れた顔を爽やかな風が撫でてゆき、僕は秋が来ていることを知った。
 つい幾日か前までこそ、僕をからかって逃げ回ることのあったサアだったが、今ではぴったり僕に寄り添っている。僕自身、サアに似た匂いを発していることを自覚していて、そのせいがあるのかもしれない。ふたりの匂いでとろんとした水の上には風に飛ばされてきた木の葉が数枚浮かんでいて、僕とサアは腕を絡めあったままそれをつついて遊ぶ。
 ふたりで初めて一緒に迎えた、秋が来た日だ。

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『青い巣』(第8回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第8回/全16回) by AntennaMan

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 九月も半ば近くになったというのに、暑い日が続いていた。
 屋根をぶち抜いたせいもあって、水温もけっこう高くなってきていた。そうなると水に溶けた酸素の量も減るらしく、明け方など底の方で寝ていると息苦しくなることもあった。
 僕は海藻をふやして酸素を補給しようと思ったが、昼の酸素は増えても夜の消費量が多くなるのでその兼ね合いが難しい。また、狭い部屋のことだから水は温度差で容易に層を成したきりになり、底の方の冷たい部分が淀みっぱなしになってしまうのだ。そうするとそこは、海藻のせいもあってたちまち酸素がなくなるので、扇風機を常にフル稼働させておかなければならなかった。
「水の中は水の中で、いろいろあるのよ」
 そうこともなげにいうサアだったが、寝る場所を選ぶのには、それなりに気を配っているようだった。
 やはりもう一台扇風機が欲しかった。塩分濃度や温度の違いによって密度が変わってしまった水は、この部屋程度の大きさでもそう容易に混じってくれるものではない。
 僕は意を決して斎藤の紹介してくれた仕事を引き受けてみたのだが、情けないほど満足に働けなかった。仕事場に着いたときには、異様に重く感じる自分の体に疲れ果ててしまっていたのである。
 少なからずショックを受けていた僕にサアはいった。
「ね、あたしが体売って稼ごうか」
「なんだって?」
 体売るっていったって、人魚がいったいどうやって仕事をするんだろう。いや、その前に、サアに体を売らせるなんてこと僕に出来るわけがない。それこそヒモだし、だいたい、サアがどうやって男の相手をして、いや、僕だってそんなの‥‥‥。
 とまどう僕にサアがいう。
「大丈夫、少しくらい切り身で出したって死なないから」
 人魚らしい勘違いは笑うに笑えず、もちろんのこときっぱりやめてもらった。
 結局、一日として引き受けた仕事を二日かかって済ませ、小さな扇風機を一台購入した。それほど効果はなかったが、ないよりはずっとましだろう。
 出たついでに釣具屋により、赤と青のカラーテグスを買い込んでサアにプレゼントした。
 赤い四号の糸を見たサアは、エビのヒゲみたい、といって喜んだのだったが、そのとき見せてくれた編みかけのセーターは、後ろ身ごろが前身ごろの倍位にも大きくなっていた。つい調子が出ちゃったの、と舌を出すサアに僕が大笑いすれば、彼女は得意気に親指を立て、バチッと派手なウインクまで添えてみせた。
 この頃のサアは、僕の後について泳ぐのに凝り始めていたのだが、水の循環が悪いためか、ときおり彼女の体からビー玉のような涼しい匂いに混じって別の種類の匂いを感じることがあった。
 これまでもその匂いをさせていたのかもしれないが、つい最近までの僕は味覚と嗅覚が混乱していて、水の中でその種の感覚をうまく判断出来ないでいたのだ。
 麝香やバラ、天心甘栗、いそべやき、サザエ、干魚、ヒノキ、セッケン、漠然とした海、山、川等、そんなものを混ぜたような、それとは全く違うような、なんと形容し難い不思議な匂いだ。高校生時代、理科室の試薬棚かどこかで嗅いだことのある匂いのような気もする。
 好きとも嫌いともいいがたいが、悪い匂いではなかった。しかし、そんなことより一番の特徴は、その匂いが僕に強烈に懐かしい思いを抱かせることだった。多くの記憶をたぐり寄せてみるものの、何が懐かしいのかはわからず、ただ、遥か昔に落とし物をしてしまっていたことだけに気づかされるような、はらはらした思いがこみ上げてくる匂いだった。
 そんなとき、僕は彼女の体を抱き、また、彼女の胸に抱かれて眠った。誰かに触れていないと不安だった。そしてサアに触れていれば、はらはら感と同時に深い安堵感も受けることが出来るのだった。
 一度気付いてしまうとサアの匂いは日増しに強くなるように思え、僕は昼も夜もどこかしらサアに触れたまま過ごした。
 サアがトイレに行くだけで僕は寂しく、戯れに身を翻されなどすれば、ほとんど泣いてしまいそうだった。夜は寄り添って寝ても朝は離ればなれになってしまっているので、目を覚ますのが辛かった。
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『青い巣』(第7回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第7回/全16回) by AntennaMan

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 せっかくの話だが、僕は仕事のことを真面目に考える気にはならなかった。
 現実逃避とはまた違う。そのうち金に困ることに変わりはないだろうが、今まで住んでいたところとこの水の中とでは、あまりに違いすぎて比べようがないのだ。
 サアに会いにくる友人達の計らいで僕達の生活のいくらかの部分が成り立っているとはいえ、それも僕とサアがここで生活を始めたからこそのことだ。機能的には僕はヒモといわれるかもしれない。しかし、毎日会社の悪口をいいながらはした金を貰って過ごした日々よりは、どんなにかまともな形だろうと思う。
 水から上がりたくなる理由がない。僕の住むところはこの水の中で、愛するサアがここにいる。僕の生活はこの部屋で完結している。
 実際、水道代と家賃では貯金をかなり食っていたが、その他は結構なんとかなっていた。食べ物にしてもごく質素なもので事足りた。
 僕は水の中に住み初めて以来、味噌汁やラーメン、うどんといった汁物を食べたいとは思わなくなったし、ポテトチップス等の乾き物はもともとあまり興味がなかった。サアはハナから料理という概念を持ち合わせていなかったので、洗った野菜や芋をそのままおいしいといってかじった。
 料理しないとなれば屑野菜や端切れでも一向に構わず、それらはスーパーに勤める同郷で古くからの友人の古沢が、ほとんどただ同然で調達してくれた。誰にも増して好奇な目でサアを眺め回す彼だったが、僕達の生活を一番に理解してくれているらしいのもまた彼だった。余計なことには口を出さず、たまには栄養つけろよといって牛のタタキやハム等を差し入れてくれたりするのだ。
 サアと暮らし始めるとき、僕は彼女が海では魚を食べていたのかもしれないと思ってそう尋ねてみたのだが、彼女は魚系が苦手なんだそうだ。僕もそうだったからちょうどよかった。
 日がな一日、僕は水の中を呑気にたゆたい、いろいろな泳ぎ方の練習をし、ときどきはテレビやビデオを見たり、訪ねてきた友達とおしゃべりをして過ごした。僕が水の中に住めるようそれなりに努力したと同じくサアもまた人間社会のことを知ろうと努力し、ホームドラマや教育番組には結構チェックをいれているようだった。また、アクション物かSF系映画が好きな僕とシリアスな芸術的大作をおもしろがってみるサアとでは、借りたいビデオの好みが完全に違っていたが、ドラえもんや音楽番組といったTVプログラムでは一緒に笑い、歌って踊った。
 水は青く、いつもサアといっしょで、そしてどこかにケガニがひそんでいる。そんな夏の日々だった。

 「ねえ、あなた長男だったよね」
 ナイロンテグスの巻いてあるプラスティックリールに重りをひっかけながらサアがいった。最近、編み物を始めたのだ。
「やっぱり家継いだりするの」
 テレビドラマの影響なのかおよそ人魚にふさわしくない言葉だったが、そんな冗談めいた話題の中にも二人のリアルな生活というものを見いだした僕は少しジーンときた。
 音楽をトーマス・マプフーモからクィーンのベストアルバムに替えた僕は、サアのいるソファーまで泳いで行ってからいった。
「長男っていってもうちはサラリーマンだからね。継ぐのはお墓と名字くらいなもんだ。親父もお袋も老後は絶対老人ホームだっていって金ためてるから、気が変わらなければ介護の心配もない。息子の嫁に世話させるのはいやだってポリシーもってるみたいだよ。お袋自身、かなり苦労した経験があるせいだと思うけど」
「へえ、そうなの」
「でもあの世代だから、親父は名字にはこだわってるみたいだ。子供が女ばかりでみんな嫁にいっちゃった家の話になると、必ず寂しいだろうにっていう。家が絶えちゃうって思うらしいよ」
「ふうん」
「キミんとこはどう」
「あたしは親の顔も知らないもの。そんなの関係ない」
「それはそれで寂しいな」
 人魚にはそういった家意識は全くないと聞いていたので、僕がわざとナンセンスな質問をしてみたのをサアはわかっている。彼女は口の端でくすりと笑ってから、やっぱり透き通った糸じゃよく見えない、といった。
「でも、どうしたの、突然」
スピーカーから流れる『バイシクル・レース』に合わせて自転車を漕ぐまねをしながら僕は聞いた。
「べつに。ただ、なんとなく」
「ふうん」
 漕いでいるうちに体が横倒しになってしまった。まだまだ修行が足りない。

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『青い巣』(第6回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第6回/全16回) by AntennaMan

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 僕の部屋は青い世界だ。
 金色の西日がアマモの揺れに遮られてちらちらする夕方もきれいだけれど、なんといっても、朝、日の出る前の青色が素晴らしい。どう形容したらいいのだろう。ラピスのように無機質で、ゼリーのように切り取れそうな、澄んだ密度の高い青だ。
 最近僕が気に入っているのは、そんな時間に海藻の森に身を沈め、ジャック・マイヨールのビデオをみること。
 いったいどこがおもしろいの、と全く興味を示さないサアは、正しい姿勢で眠ったまま扇風機の起こした流れにのって僕とテレビ画面の間をゆっくり通り過ぎて行く。いつからか住み着いた小さなクラゲがその後ろをついてまわり、僕は、まぬけなのと平和なのと幸せなのはそれほど違わないことかもしれない、なんて考える。
 隙間なく詰まった空間がゆっくりと流れ、コロイド状の時間が静かに通り過ぎて行くなか、宇宙の光りが朝の青色に拡散してゆく。

 そういえば、水の中で暮らし始めてから僕の音楽の好みはだいぶ変わった。
 夜の水中ならサティーのジムノペディで、月の具合によってはドビュッシーや日向敏文を定番として迎えてしまうのはそれなりに理解してもらえるだろう。が、空気でなく水の振動を介して聴く音楽は、体への感じ方がかなりダイレクトになるために陸上とは聞こえ方が異なってくるのだ。音域にもよるが、極端な話、眼鏡屋でジリジリいっている超音波洗浄器の中にいるようなものだと思ってもらえばいいかもしれない。
 今のところバロックからロマン派前期にかけてのクラシック音楽と、ちょっと古めのレゲエやアフリカ系、特にトーキングドラムの入っているのが気に入っている。意外だったところでは、『南部牛追い歌』など、ゆっくりめの民謡のリズムも体にしっくりきていい。
 派手なロックは大音量できくとマッサージがわりになってそれなりに重宝しているのだが、その系統をあまり聴き続けるのは体に悪そうだ。ビリー・ジョエルくらいがちょうどいい。
 悪いといえば、一番は喜多郎とかいう人の古いシンセの音楽で、ふとラジオから流れてきたときには身体中が鉄条網にまかれたようにしびれてしまって以後気をつけるようにしている。他の人工音系のα波ミュージックも頭が狂いそうでよくない。
 もちろん、マーラーのシンフォニーもだめだ。あれは、びっくりする。

 「よう、おまえにぴったりの仕事があるぞ」
 ニカウさんのビデオをもってサアに会いにきた斎藤がいった。
「仕事って、探してくれてたのか」
「いや、たまたまさ。なに、俺の会社の関係で管理しているダムのことなんだけどな、今度潜水夫雇って導水管の掃除するってんだよ」
「掃除?」
「ああ。トビケラの幼虫の巣がびっしりくっついてるものだから、とってやらないといけないらしい」
「なんだいそれは」
「トビケラの幼虫は知ってるだろう。ほれ、よく川釣りの釣りの餌で使う黒いイモムシみたいなやつだ。石の裏に砂粒なんかで巣をつくってるやつ。それが大量にくっついて水の流れを悪くするんだ」
「へえ」
「どうだ、おまえにピッタリだろう」
「ダムか。めちゃめちゃきれいならいいけど、そうじゃなきゃその水で息するのいやだな」
「アクアラングつけるに決まってるだろうが。みんなびっくりする。おまえ、水の中の身のこなしはばっちりだろうからどうかと思ってさ」
「だめだ。ダイビングの免許がない」
「免許か。免許ねえ。おまえがいうと不思議だが、まあ、そのくらいなんとかなるんじゃないかな。ひょっとしたらどこかの潜水屋通すことになるかもしれないが。どうだ」
「ま、考えとくよ」
「ああ、マジで考えてくれ」
 そのとき背中に軽い水圧を感じた。サアがやって来たのだろう。とたん、斎藤の目が泳ぎ出すのがわかる。
 斎藤はサアを見たがりはするのだが、見ることにどこかしら恥じらいみたいなものを持っているらしいのだ。愛もないのにヘンなやつだ。
 振り向けば、大きな目をキラキラさせたサアがいて、金太郎飴ありがとう、今度は銀次郎だね、と昨日あたりから凝り始めたタイプの冗談を使って斎藤にお礼をいった。そして、いつもお買い物頼んじゃってごめんね、と爽やかな笑顔を浮かべたまま続ければ、斎藤が胸をどんと叩いていった。
「サアのためならたとえ火の中水の中、あ、おれ水はだめだった、わはは」
僕はあきれ顔をつくっていう。
「おもしろいじゃないか」
「だろ?」
得意げに親指をたてて見せる斎藤に、サアが異常にウケた。大笑いの顔もとても素敵だ。

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『青い巣』(第5回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第5回/全16回) by AntennaMan

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 サアの提案が功を奏して、海藻を植えたあとはプランクトンの繁殖がおさまったようだった。僕が心底関心して、すごいなさすが人魚だ、といえば、サアは、そんなの人魚じゃなくても想像つくわよ、といった。
 僕らの植えた海藻はその後順調に育ち、いくらかは収穫も出来るようになった。もちろん売るほど大量にはとれないがムム僕は半ば本気で養殖を考えていたのだけれどムム自分達で食べるくらいの量は充分だった。どれもサアの好みのものだったが、ホンダワラは僕の口には合わなかった。けれども、フロートの役目をしている空気の入った玉をプチとかみつぶすのは、結構おもしろい。
 繁った海藻の森は扇風機で軽く水をゆらしてやると元気になるらしいし、見た目にも感じがいい。水の抵抗をうけたプロペラはそれほど勢いよく回らず、程よい具合の流れを作ってくれる。
 そう、扇風機といえば、船に乗せて浮かべたCDやビデオデッキ以外の電気製品は、全て防水の工夫をして水の中にある。去年ボーナスで買った電子レンジは、うっかりスイッチを入れてしまわないよう斎藤にゆずった。あれは危険なんじゃないかと思ったのだ。

 僕はサアに、ペンギンでも飼ってみたらどうだろう、といってみたことがある。こんな呑気な生活に、ああいった愛敬のある存在もまた楽しいだろうと思ったからだ。
 ところがサアには、あれはせわしないからいやよ嘴だってとんがってるし、と断られた。僕はペンギンがせわしなく泳ぐなんてのは初耳だったが、考えてみれば空を飛ばずよちよち歩くだけの鳥がアザラシやシャチのうようよいる海で生き延びられるわけがない。水の中くらい機敏に行動しているのだろう。
 そんな話をした直後、どこからか飛び込んできたカツオドリが、巨大なハエのごとく、ものすごい勢いで部屋の中を飛び回り始めた。急旋回がきくぶん、空を飛ぶのとは比べ物にならないくらいあわただしい動きだった。捕まえようにも鋭い嘴が危険だったし、だいいち、僕の手におえるようなスピードではなかった。さんざん部屋の中を荒らし回った末、いや、実際に荒らしたのはそれを追いかけ不自然な水流を起こした僕だったのだが、それはついと空中に出て飛び去ってしまった。
 息をきらす僕の上でホバリングするサアは、ね、たいへんでしょうペンギンもあんなよ、といって笑った。
 そんな訳でペンギンのペットは諦めたけれども、田舎のお袋が、婦人会の旅行で北海道へいったんだよ、とケガニを送ってきたのでそいつを放しておいた。保冷剤とスポンジに挟まれてはるばるやってきたそれは生きていたからだ。
 おいしかったと嘘のお礼をいうのは心苦しかったがしかたがない。カブトムシの世話さえ満足にできなかった幼少時代の僕なのだ。飼うことにしたなどといったら、食べ物を粗末にするんじゃないと怒り出すに決まっている。
 彼は小さな食べ物のカスなら片付けてくれるので結構便利だし、にらめっこをしてみると、それなりに愛嬌があっておもしろい。サアもケガニケガニと呼んで喜んでいる。でも、たいていどこかにもぐり込んでいて、なかなか姿を現さないのが玉に傷だ。

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『青い巣』(第4回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第4回/全16回) by AntennaMan

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 サアと暮らしはじめてつくづく思うのだけれども、これまでの僕の住んでいた世界はとても狭い世界だった。いや、以前の僕ばかりでなく、現在の全ての人の住んでいる世界が皆そうだろう。狭いというのに語弊があるなら、平面的とでもいおうか。
 だいたいこの世は三次元の立体で構成されているといえるのだろうけれども、特殊な状況を除き、人の生活の場はまるきりの平面でしかない。地に足をつけずに生活をしている人などいないのだ。ビルや飛行機の中だって平面の上という点では本質的に変わらないし、フリーフォールやらなにやらにしたって、ただの平面から平面への移行でしかない。特殊な状況というのは、宇宙空間にいる場合やダイビング中くらいだろう。ひょっとしたら、スクワットに熱中している人の場合も入れていいかもしれない。
 そんな平面の世界しか知らない僕だったが、今はこんな小さな部屋の中でさえ、まるきり違う世界に思えている。太陽を背に浮かびあがって自分の影を見下ろしてみたり、部屋の底から天井に向かって仰向けに宙返りをしてみたとき、特にそう思う。
 斎藤は三次元の世界を泳ぎ回って話をする僕に、おまえ近ごろ感情表現が動物化してるぞ、などというが、この感覚ばかりは水に入ろうとしない彼にはわからないだろう。僕は縦という新たな方向を手にいれたのだ。動物化云々はともかく、今までと同じであるわけがない。
 鳥のように、といってもいい。僕とサアは、僕らの城の中を自由自在に飛び回って生活していた。

 天井をぶち抜いて幾日かしたころ、僕達は困ったことがおき初めていることに気がついた。
 部屋の中が明るくなったためか、藻、つまり植物プランクトンや付着藻類の繁殖が目立ち始めたのだ。
「いったい、どこからやってきたんだろう」
 そう首をかしげる僕に、サアは、こんなのどこからだって沸いて来るわよ、といった。そして、
「でも、あんまり濁ってきちゃうのもいやね」
と、僕に対処策を提案した。
 サアの指導の下、僕達は手伝いあって八畳間の畳に海藻を植えることにした。
 窓辺にはブラインドがわりにアマモをずらりと並べ、テレビのところからソファーにかけて、アオサ、アサクサノリ、ワカメ、テングサ、ホンダワラ等をそれなりにレイアウトすれば、ちょっとしたミニチュアの森ができたようだった。
「バッチリグッドじゃない」
両手を腰にあてて下を見下ろすサアが満足そうにいった。
 もうひとつ、夕立で降った雨が塩分濃度の関係で水面に層をなしてしまったという問題があった。
 目がちらちらするやら味がかわるやらであまり気持ちのよいものではなかったため、次からは天気予報に注意して降りそうなときは日よけ用のシートを張ることにした。溜まってしまった分はホースで流してもよかったのだが、水ももったいないのでふたりして並び、足や尾鰭をばたばたさせてかき混ぜた。効率は悪かったが、そんな労働はなかなかに楽しかった。

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『青い巣』(第3回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第3回/全16回) by AntennaMan
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 そんな夏の日、僕は防水加工したテレビジョンセットのスイッチをいれたまま、部屋の掃除をしていた。大嫌いだった料理の後始末や洗濯物を干す行為から解放されたせいか、部屋の掃除だけは結構小まめにするようになったのだ。
 掃除といっても、洗濯機用の排水口につないだホースを手に持ち、つまんだその先を少し緩めてやるだけだから簡単なものだ。勝手にゴミを吸い込んで流してくれる。しかしあまり調子にのってやっていると、部屋の水がへってしまうので気をつけなければいけない。
 天気に関しては相変わらず「記録的」報道が続き、青くちらちら光るテレビ画面を横切る街の人々は、皆ふやけたビスケットのような顔で重い体を引きずっていた。もちろん、僕にはその暑さは無縁で、湿気もまた関係ない。快適な生活だ。
「おう、おれだ。この前いってたもの、買ってきたぞ」
 ノックの音に続いて人の声が聞こえた。学生時代から付き合いのある斎藤の声だった。
 建設関係の会社に勤めている彼もまた、サアの姿をみるのが好きなのでよくやってくる。肺の水を空気といれかえて外へ出るのがおっくうな僕は、それをいいことにしばしば買い物を頼んでいた。
 ホースの口を天井のフックにひっかけてから玄関にむかい、逆さの姿勢のまま手を伸ばして鍵をあければ、水と空気の境界の向うにYシャツの胸を汗で濡らした彼がいた。短い首から暑苦しそうな濃い色のネクタイがぶら下がっている。流行やらデザインやらにかなり気を使っているらしい彼なのに、僕の目には似合って見えたことがないから不思議だ。
「相変わらず涼しそうでいいな」
 まあな、と答える僕の顔は見ずに、彼は茶色のセカンドバッグと共に手にしていたディスカウントショップの袋をがさごそ探る。
「ええと、海水の素と防水のライト。電池は入ってる。ゴーグルはここがプラスティックのがよかったんだよな」
 水の中で暮らせるようになったとはいえ、ゴーグルをつけないとやはりよく目がみえない。今使っているのは金具のところがいかれてしまい、ゴムの調節がうまく利かずに耳の上が痛いのだ。
「ああ、それだ。悪いな」
「ビデオは返しておいたぜ。それから、今日は金太郎飴買ってきてみたよ。サアが珍しがるだろ」
「おう、サンキュ」
「海水の素、結構つかうな」
「ああ。やっぱりトイレとか特にね」
 今でこそ、かなりの工夫の結果それほど水を汚さない排泄の仕方を身につけるに至ったが、暮らし始めの頃はたいへんだった。自分もそうだが、特にサアが、だ。
 トイレの一角を仕切って水の交換をしやすくしたところをその場と決め、それ用のホースを駆使して事を致すことにしたのだが、そもそもサアは排泄はトイレでするものだという感覚を持ち合わせていなかった。つまり、ところかまわずだったのだ。そんな彼女に言えるのは、この部屋は狭いから水が汚れやすいというそれにつきた。それ以外に説得力のある説明を僕は見いだせなかったからだ。海の中をまねて小魚でも飼えば、どこでやらかそうと、とたんに群がって始末してくれるのかもしれないが、やはりそれには抵抗があるし始末されている過程も見たくない。生活習慣の違いといってしまえばそれまでだが、こればっかりは譲ることが出来なかった。
「でも、前より少なくなって来ただろう」
 そういう僕に、斎藤は袋の成分表を眺めながらいった。
「それはそうだがな。なあ、こんど安い荒塩で試してみたらどうだ。浸透圧さえ合っていればいいんだろう」
「まあ、今も海水より薄めにしてもらってるけどね。そうだな、荒塩か。こんど試してみようか」
「そうしてみろよ。しかし、サアが淡水の人魚だったら楽だったろうにな」
「淡水の人魚は体がぬるぬるするらしいよ」
「へえ、そうか。それはそれでたいへんかもしれないな」
 人魚との暮らしを知らない彼がどうたいへんだと想像しているのかわからなかったが、この斎藤という男は水が苦手で、泳げないのはもとよりゼミの合宿でいった温泉旅館の風呂さえ入ろうとしないやつだった。詳しくは聞いていないが、幼いころに怖い思いでもしたのだろう。この部屋へも一歩も入ろうとはしない。
 僕はきちんと頭を上に向けた姿勢をとり、水の中から外へと手を伸ばして彼から袋を受け取った。
 斎藤がいう。
「サアはどうしたの。姿がみえないけど」
「ちょうど今、風呂入ったところだよ」
「へえ。そういやこないだシャワーが好きっていってたな」
「ああ。シャワーはかなり気に入ってるみたいだ。どうする。出るまで待ってるか」
「いや、いいさ。また来るから」
 そういって帰ろうとした彼だが、そうだ、とこちらに顔を向け、声のトーンを一段落としていった。
「なあ、おまえいつまでこんな生活続けていくつもりだ。仕事なくして、もうだいぶ経つだろう」
 僕はとりあえず、いわれなくてもわかってるちゃんと考えてるさ、と答えた。しかし本当のところは、まるきり考えていなかった。そういう気にならなかったのだ。つまりは、わかっていないということかもしれないが、わかるわからないの区別もあまり気にならない。
「ちったあ、将来のこと心配しろよ」
将来のために、と考えたつもりで就職した会社がつぶれたのだ、もうそんな言葉には騙されない、などといい返す言葉を頭のなかでひねくってみたが、口にするのが面倒だったので、そのうちな、といっておいた。
「そのうちっておまえ‥‥‥」
彼はさらに声を落としていった。
「なあ、サアにしてみても、こんなところにいたんじゃ可哀想なんじゃないのかな」
「どういう意味だ?」
「狭いってことさ。人魚は人魚らしく広い海にいるのが幸せなんじゃないかと思ってな」
 建設関係者的ナチュラリズムは、どうしてこうも個別性を見失うのだろう。僕は足もとの床を蹴り、天井から冷蔵庫へと斜めに背面宙返りをしてからいった。
「うるさい。どんな生活をしようと人の勝手だろう。おれとサアとでこういう生活を選んだんだ。ひとにとやかく言われる筋合いはない」
「そりゃあそうだが、しかし‥‥‥」
僕は奥の部屋の窓へと突進し、ぶつかる直前でターンして戻ってくるといった。
「しかしもくそもあるか。よけいなお世話だ。サア見たさに来ているくせに妙な口だしするな」
そういって今度はきりもみしながら、ダイニングから奥の部屋にかけて8の字を描いた。少し目が回って言葉が過ぎてしまったことに反省し、渋い顔をしている斎藤にいった。
「いや、悪い。言い過ぎた。なんていうかその、狭さに関しちゃ全く気にしてないってことでもなくてさ」
せめてもうひと部屋あってもよかった。
 手にしたバッグを持ち直しながら斎藤がいった。
「サアは何もいわないのか」
「ああ、海もあれはあれでたいへんなところみたいだ。サメに食われないように気をつけなきゃいけなかったりな。コバンザメがくっついてくることもあったらしい。あれは相当嫌みたいだ」
「へえ、そうか‥‥‥。ま、仕事のことはマジで考えてみることだな。協力できることがあったらするから」
「ああ、悪いな。おや、そろそろあがるんじゃないかな、会っていくかい」
「いや、いいよ。人の彼女の体を見に来たみたいに言われたあとじゃ、ヘンな気分だ」
「そうか。悪かった」
「ま、いいさ。長いつきあいだ。また来るよ」
「手足だけでも冷やしていけばいいのに」
「いいよ、かえって暑くなる。じゃな」
 斎藤は帰っていき、僕はその場で天井までふらふらっと浮き上がり、またふらふらと床まで沈んでみた。貯金が底をついたら何か考えてみよう。

 なんだかんだいっても斎藤の言葉が少し気になっていた僕は、八畳間の天井と屋根を半分ほどぶち抜いてしまった。広さは変わらないものの、もっと気持ちのいい生活が送れるだろう。もとより雨が降ろうが降るまいが濡れたままだし、水温が上がり過ぎたら簡単な日よけでもつければきっとそれで済む。
 もちろん大屋には内緒だ。そもそも部屋に水を張ることだって内緒なわけで、一度内緒を決め込んでしまえばなんだって同じだ。
 僕はサアに、どうだいこの方がずっといいだろう、といった。
「ステキ」
 そう、サアはいった。
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『青い巣』(第2回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第2回/全16回) by AntennaMan

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 新しい生活は、いつでも新しい種類の匂いに包まれて始まる。
 小学校では下駄箱の匂いだった。中学校は部室棟の前の焼却炉だった。生活が変わるたび、新たな匂いに僕は包まれた。挽きたてのコーヒーもそうだし、オレンジ色のガソリンもそう。積み上げられた段ボールや、真新しいスーツ。コピー機、煙草、地下鉄のホーム⋯⋯。
 サアとの暮らしは水の匂いだ。
 部屋の隅々まで念入りに目張りをしてサアを迎えた僕は、ズボンの裾を捲り上げて水道の蛇口をひねった。目盛り付きのバケツとストップウォッチを使って水の出る速さを計り、時計を見ては海水の素の袋を破った。サアが住めるようになるまでまだまだかかりそうだというのに、彼女は仮の住まいと指定したバスタブから這い出してきては、背中や胸や尾鰭の先を水面から出したままバチャバチャと泳ぎ回った。サアはとてもすばしこく、自然と始まる鬼ゴッコはいつも僕が負けだった。服をびしょ濡れにしてしゃがみ込めば、僕の傍らに身を横たえたサアが、尾鰭を静かにゆらしながら水の音に耳を傾け、聞いたことのない歌を小さく口ずさんだ。
 そんな僕達を水の匂いが包み込む、新しい生活のスタートだった。

 特に彼女の人柄を愛している僕だったが、彼女がいかにも人魚らしいきれいな姿をしていたのはラッキーなことだった。
 下半身がウナギやマンボウのようだったり、熱帯魚みたく水玉模様や派手なしましまだったりしたら、僕もやっぱり気後れしたんじゃないかと思うのだ。ハリセンボンのようにとげとげに膨れるのや、タツノオトシゴチックな鎧状の肌でなかったのもよかった。
 それに、両の胸にホタテをくっつけるような、いやらしい趣味がないことも気に入っている。
 実際、彼女はとてもきれいだと思う。
 機能美に留まらない見事な曲線を描いた下半身は、ダークグリーンとダークブルーの混じったような、深くそれでいて透明感溢れる落ち着いた色合いで、腹側では幾分淡くなっていた。ただ、細かな鱗、といっても足の親指の爪くらいはあるがムムもちろん僕の足の爪だムムその一枚一枚に目をむければ、それは見る角度や光線の加減によってオレンジや赤、シルバー、エメラルドグリーンへと微妙に色合いを変えた。
 青みがかった長い髪は、ナンセンスな言い方を許してもらえるのならば、濡れたようにしっとりとして魅惑的にゆらめき、それこそ繊細な構造をもつ半透明の尾鰭は、時にたおやかに、時に毅然とした様子で彼女の身のこなしを支えていた。
 上半身こそ、そこいらの男性誌をめくればすぐに見つけられるものとそう変わらず、形容するならば、若い、とつけるくらいだったが、他の人魚の例を知らない僕にも下半身の形と絶妙なバランスを保っていると思わせるようなものだった。
 サアがきれいだということは僕の友人達の気もひくことでもあって、時々親しい幾人かが彼女の姿をみるために訪ねて来る。
 サア自身はウロコが不格好に剥がれていさえしなければ、彼らに見られることを一向に気にすることはなかった。それはそうだろう。愛がなければただの人魚と人間だ。へんに気を使うこともない。
 彼らは皆、玄関を開けるとその先に垂直な水の壁があることに驚く。そしてその中に僕がいることにさらに驚く。僕が風呂場にサアを閉じ込めているとでも想像していたのだろうか。実感として愛を体験中でないものは、ときとして哀れなほど貧困な想像力しか持たない。
 ただ、部屋に満ちている水が玄関や窓からこぼれないことについては、僕も始め少し驚いた。詳しくは知らないが、きっとサアが何かしら人魚らしい工夫をしているのだろう。これだってきっと、愛があればこそだ。
 とにかく彼らは、僕の紹介するサアの姿を隅から隅まで眺めて帰って行く。その目は水族館でクリオネを眺めている人のような優しいもののときもあれば、まさしく好奇の目というのがふさわしいときもあったのだが、共通しているのは、皆サアを見るのが好きだということだ。
 口の悪いやつは、ここを見せ物小屋といったり、働きがなく、ある意味でサアを見に来る彼らの世話になって生活している僕をヒモといったりするが、そうみられても別にかまわない。僕達の暮らしそのものにはあまり意味のない言葉だと思うから。
 僕がサアに向けるまなざしは、一般的な恋人のそれだといえばいいのだろうが、ひとつ特別に気を引かれてしまう部分がないわけではなかった。彼女の腰付近の鱗が始まるあたりがそうだ。
 何度見ても見慣れず、記憶を呼び起こそうとする衝動より再度の観察への欲求が常に優位にあるもの、つまり、性質的には男にとっての女性の外性器のようなものとでもいえばいいだろうか。
 ついでの話だが、人魚が真珠の涙を流すなんて話は間違いに決まっている。どうみてもサアの目に真珠の出てきそうな穴などないからだ。ホタテにかえてアコヤ貝を胸につけた悪い人魚に騙されたに違いない。
 僕は、サアとの暮らしのためにモスグリーンの水泳用パンツを新調した。来客のないときにはサアと同じく裸でいいと思ったのだが、やってみるとどうにもふらふら落ち着かないし、それをみたサアが笑いころげるのも癪にさわるからだ。

 暮らしていることそのものが気持ちいい。
 水面に浮いて、間近にみえる天井を見上げるのも新鮮だし、ただひたすら泳ぎ回ったあとの軽い疲労感も心地いい。今のところはテレビの上からダイニングのテーブルをくぐり抜け、冷蔵庫の際でターンして電灯の傘の下までいくコースに凝っている。
 このコースはサアならば後ろを振り向くくらいの間にやってのけるが、僕はまだ時間がかかるばかりでなく、ほとんどの場合でテーブルか冷蔵庫に接触してしまう。成功したところで、妙な力の入れ方をするせいか、あらぬところの物を水圧で倒してしまったりするのだ。まだまだやることはたくさんある。
 サアの泳ぎがうまいのはあたりまえだとしても、彼女は急発進急停止をしたときでさえ、かなりヘアスタイルの整った状態を保っていた。実に女の子らしい気配りだと思う。僕の髪は、いつもイソギンチャクの触手のようにふらふら泳いでしまっている。
 そういった細かなところは行き届かないにしても、僕とて、もうかなりに泳ぎは上達していた。
 普段は飲み込んだ空気の量で浮力を調節するのだが、最近では横隔膜と肋間筋、それに鎖骨の動きを制御して、肺を浮袋がわりにできるようにもなった。仕組みはよくわからないが、肺に少し空気をいれてやったあと、胸を膨らませないよう注意して腹の力で横隔膜をあげてやれば、体はすうっと沈み、反対に横隔膜をぐっと下へおしさげれば、体が浮くのだ。もちろん、その間は息が苦しい。しかし、そんなの、どうってことないことなのだ。慣れの問題だし、なにしろ僕には愛がある。
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『青い巣』(第1回/全16回) by AntennaMan

『青い巣』(第1回/全16回) by AntennaMan

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 サアとの暮らしは気持ちいい。
 気持ちよく、そして、何もかもが充実している。
 僕の身の回りのもの全ては、確実にそれ固有の密度をもって存在していた。小振りなガラスのテーブルにおいた箱に、それなりに気を配ってレイアウトしたベルリの類や翡翠の原石、珪化木、貝の化石といったものもそうだったし、どこで手に入れたか忘れてしまったマレーグマの置物もそうだった。そして、僕自身もまた、まちがいなく僕自身の密度をもってここにあった。
 戯れに僕を扇ぐサアからは、ビー玉のような涼しい香りが漂い、その香りの流れは、僕の眺める石の下に敷かれた長石や石英からなる白い砂と穏やかに干渉し合っていた。窓から差し込む夏の西日が金色を帯びて部屋中に満ちていく中、突然身を翻したサアが滑らかな体のシルエットをみせて僕の目の前を通りすぎてゆく。僕は、舞い上がった砂の中でその配置を替えてしまった石や化石を再び並べなおす作業にとりかかろうとするが、砂が落ち着かないのですぐにあきらめ、畳をけってサアを追う。
 なんて充実した日々。隅から隅までが、ほぼみんな一グラムパー立方センチ以上の密度で埋まっている。生活の場を水の中に移すだけで、こんなにも世界が変わるだなんて。
 僕の両腕はサアの腰をつかまえるが、彼女は身をくねらせ、するりと逃げてしまう。頬をなぜてゆく尾鰭に慌ててつかまれば、そのまま彼女は僕を連れて部屋の中を旋回する。

 一DKの僕のアパートには玄関付近と天井から下十数センチを除いて隅々まで海水が張ってあり、僕とサアは一日中その中で暮らしていた。
 暮らし始めた当初こそ僕は水の中での呼吸に慣れずにずいぶんと苦しい思いをしたけれども、今はもうなんともない。もともと人間の肺は魚や両生類の鰓と起源を同じくしているものだ。サンショウウオの幼生から成体への変化をみればわかるように、陸上生活での乾燥に耐えられるよう外へ出ていたものを体内に取り込んだだけだから、水の中でも呼吸機能を失うわけではない。
 なんていいかたをしてうそぶくことは可能だろうが、浸透圧や酸素分圧と水の交換効率などのの問題があって実際やろうとして出来るものではない。それが僕に可能であったのは、つまり、もちろん、愛の力だ。
 愛さえあればなんでもできる。愛こそ全て。
 笑わないで欲しい。そんなふうに僕達は育てられてきたのではなかったっけ。

 夏を迎え、テレビやラジオから聞こえるいくつかの天気予報用語が「記録的」という修飾を伴い始めたころ、ひょんなことで出会い、一緒に住み始めたのがサアだった。
 彼女はそれまで特に名前は持っていなかったようだが、出会ったときにサーッと泳いでいたのでサアと呼んでいる。サーッはヘンなのでサアにしたのだ。彼女もその呼び方が気に入っているらしい。
 僕の愛するサアが人魚であること、いや、人魚であるサアに向けた僕の気持ちを愛と呼ぶことを誰も責めたりはしないだろう。時代、時代でスタンダードな形はあるにしろ、多くのバリエーションに寛容なのが、僕らの学んできた愛というものであったはずだ。
 というより、どんな関係性を持とうが、閉じた、あるいは排他的な思いであれば、みな愛と呼んでしまうのが現代というものではなかったか。神様に祝福されるかされないかはまた別の問題だ。

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『青い巣』 by AntennaMan
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連載読み物『青い巣』アップ

連載読み物第2弾は、AntennaManによる 『青い巣』です。
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読み物インデックス

『しずかちゃんの遺言』
      by ハーディ・ガーディ・ばんらい
 どら焼き、ジャイアン、タケコプター・・・・・。
 どこで聞いてきた名前だったかはさておき、スーパーマンが登場してしまうわけなんかも脇にどけて、まずは「こんにちは」のあいさつから始まる物語。

※ このブログを置いているFC2に、「FC2小説」というサービスが出来ましたので、
「しずかちゃんの遺言」をアップしました。
http://novel.fc2.com/novel.php?mode=tc&nid=5391
内容は同じですが、短めの文でページをめくる形にしましたので、
ご使用のPC環境によっては、「FC2小説」版の方が読みやすいかもしれません。


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『青い巣』

      by AntennaMan

 小さなアパートの一室で、人魚と暮らし始めた「僕」。ひそやかな夏の記録とその結末。

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『閻魔様の殉職』

      by AntennaMan

 「大王様、わたしゃもう、すっかり酔っぱらっちゃいましたよ」。研修出張を利用して、閻魔大王と舌抜き係員が有名タン専門店でちょっと一杯。

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そろそろ

ガソリンの値が上がりましたね。
あちこち動き回ることの多い私には、ちょっとこたえます。
ところで、そろそろ新しい読み物をアップしようと思ってます。
『しずかちゃんの遺言』については、相変わらず「しずかちゃん パンツ」等で来てくださる方が圧倒的多数。しずかちゃんって人気があるんですね。

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