空飛ぶバディネリ 『しずかちゃんの遺言』26
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『しずかちゃんの遺言』26

 『しずかちゃんの遺言』 (第26回/全__回)

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26.


 冬を間近にしたある日、一仕事終えた私がお店の隣の空き地に縁台を出し、お茶でも飲もうと思ったときです。
 いつかのおばあさんが、やって来ました。
 おじいさんの手術は無事に終わったそうで、その後の経過もずいぶんといいとのことでした。
 おじいさんはまだ病床にいてドラ焼きは食べられないそうですが、こんなことを言ったそうです。
「手術から今まで、ずっとあのまずいドラ焼きのことを考えていたよ。だから今では、どこがどうまずかったのかはっきり言える。早くあのけしからんドラ焼きを買ってこい」
 おばあさんは、私の渡した湯飲みを両手で上品に持つと、一口すすってから言いました。
「おじいさん、ちょっとよくなったかと思ったら、とたんに威張りちらしましてね。今日はまず香りからチェックしてやる、ですって。なんだか、あなたのドラ焼きの文句を考えるのが生き甲斐になってしまったようですよ」
「そうなんですか。じゃあ、はりきっておいしいドラ焼きを作らないと。ようし、おじいさんに文句を言われないよう、完璧なドラ焼きを作るぞ」
 おばあさんは笑って言いいました。
「いえいえ、完璧になったら、おじいさんの生き甲斐がなくなっちゃうじゃないですか」
「あ、そうか」
「おじいさんはね、あなたが作るドラ焼きがいいんですよ、味なんて二の次なんですよ。あ、こんな言い方したら失礼でしたね」
 板塀の向こうの路地をスーパーマンさんが激しいくしゃみをしながら通り過ぎて行くのが見えました。
 おばあさんに「いえいえ」と言いながらスーパーマンさんの姿を見送った私は、おばあさんにたずねてみ
ました。こんな柄にもない質問をしてしまうのは、おばあさんの特別に上品な佇まいのせいかもしれません。
「おじいさんは、おばあさんを大切にしてくれてますか」
「何言ってるんですか。寝たきりの人が誰を大切に出来るっていうんです。毎日文句ばかり言われてますよ」
 にこにこしながら、そう言いました。
 見上げた空にはトンビが一羽飛んでいて、一度も羽ばたくことなく、空に大きく円を描き続けていました。
 私は、トンビには上昇気流が見えるのかな、と思いました。

 「ねえ、おばあさん。僕の友達に、自分の名前を忘れてしまってた人がいるんですけどね、その人、ひとの名前もわかってくれなかったようなんですよ。目の前の人を見ていながら実は誰も見てないっていうか。自分の名前を忘れてる人って、そういうものなんでしょうか」
「それはそうですよ。自分の名前を忘れてたら、何もみえるわけがないでしょう。それにね、ひとというのは、自分の名前を呼んでもらえなかったら、佃煮みたいな色になって死んでしまうものなんです。昔からよく言うじゃないですか、鵜の目鷹の目山椒の芽って」
 私は、それはちょっと違うんじゃないかと思いましたが、お年寄りの長年の勘違いというものが、とても愛おしいものに思えました。
 おばあさんは言いました。
「自分の名前を忘れるなんて、何かよほど辛いことがあったんでしょうかねえ。でもあなた、名前を忘れた方とどうやってお友達になったのかしら」
 私が口ごもっていると、おばあさんは、この話はおしまい、とばかりに、
「いい天気ですねえ。私はこの季節が一番好きですよ」
と言いました。
 私は、なんとなしにおばあさんにきいてみました。
「おばあさんは、お風呂場で暮らすしずかちゃんって知っていますか」
「お風呂場で暮らすしずかちゃんですか。そんな方は知りませんねえ」
「そうですか。そうですよね」
「でも、別のしずかさんなら知ってますよ」
「えっ」
「私の母親はしずかって名前だったんです」
「え? おばあさんのお母さんはしずかさんってお名前なんですか」
「ええ、そうなんですよ」
そう言っておばあさんは湯飲みを口に運びました。
「そうですかぁ。おばあさんのお母さんは、しずかさんっていうんですか」
「ええ。私の母親はしずかっていう名前だったんです。素敵なひとでしたよ。早くに亡くなってしまったので、私はもう母親より四十年もよけいに生きてしまいました」
 そういうおばあさんの、穏やかで幸せそうな表情を見た私は言いました。
「なんか、お母さんのいい思い出がたくさんありそうですね」
「貧しい時代でしたからね、辛いことばかりでしたよ。けれども、私が辛い思いをしたときに私の頭をぐるぐるなぜながら言ってくれた言葉は、今でもはっきり思い出せますよ。『あなたの好きなものがあなたの大切なもの、あなたの好きなひとがあなたの大切なひとよ。大切なのは鵜の目鷹の目山椒の芽。たくさん好きになりなさい』って」
 なんだかよくわからない思い出の言葉でしたが、もう、どうともアレンジしようのないおばあさんの大切な物語の一部なのは、確かなことでした。
 さっきのトンビが、まだ大空をくるくるまわっていました。

 鵜の目鷹の目山椒の芽かあ。
 しずかちゃんに会いたいなあ。
 広く雄大なお風呂場からタケコプターで大空に舞い上がる、しずかちゃんに会いたいなあ。


                             つづく...

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